
岡山県の北東部、人口約1400人の西粟倉(にしあわくら)村。
「百年の森林(もり)に囲まれた上質な田舎」を目指す小さなこの村で、犬と教育の新しいかたちを広めようとしている方がいます。
教員として15年間、子どもたちと関わってきた青木潤一さん。
岡山県出身ではない青木さんが、この村にたどり着いた理由、そして“犬と教育”にかける思いとは。
この記事を書いた人
動物介在教育を広めるために
「あおじゅん―っ!」
大人から子どもまで、すれ違う村人にこう呼ばれているのは、青木潤一さん(41)。
健康や教育、社会福祉事業などの人的サービスに、動物を取り入れる活動である「動物介在介入」[1]。
その中でも、教育現場に動物を介在させて情操教育を行ったり、命の大切さを学んだりする活動は「動物介在教育」と呼ばれています。
青木さんはこの「動物介在教育」の理解と普及、推進を目的とした日本スクールドッグ協会の代表理事でありながら、スクールドッグと呼ばれる犬を教育現場に介在させる活動を行っている「Social Animal Bond」の代表も務めています。
[1]IAHAIO「IAHAIO 動物介在介入の定義とAAI に係る動物の福祉のガイドライン」
青木さんの元を訪れると、真っ先に出迎えてくれたのはラブラドルレトリバーのレイ。
2日前に青木さんのチームの一員になったばかりの新米犬です。
その先には、他のスクールドッグたちアスラン、スー、フルートも待っていてくれました。


元々、京都府で中学校の教員として現場に立っていた青木さんですが、2021年に西粟倉村に移住。
犬と教育の新しいかたちを広めようと決意しました。
拠点地としてこの村を選んだのには、あるきっかけが。
1クラス35人前後で編成される[2]教育現場において、生徒一人一人をしっかり見るのには限界があります。
「そうしているつもりはなくても画一的な指導にならざるを得ない」と
青木さんは当時の葛藤を語ります。
「変な言い方ですが、例えばちょっとグレたり、問題を起こしたりできる子は注意して見てあげられます。でも、アクションを起こせずに苦しんでいる子がすごく多い。例えばそういう子が、社会に出てからドロップアウトしても助けてあげられないんです。いかに学校の中で『しんどい』の声を上げられる環境をつくるか、が課題でした」
教員としての子どもたちとの関わり方に限界を感じる一方で、子どもたちが本心をさらけ出せる環境づくりに、スクールドッグの有効性を感じていた青木さん。
教員を辞めて起業することに二の足を踏んでいましたが、ある一言が後押しになりました。
「15年間教員をしていてもちろん楽しかったです。でも1日が過ぎるのも早いし、1ヶ月、1年があっという間で、全てがルーティンワークのようにも感じていました。そんな時、同僚が教員を辞めることになって。彼が残した『青木さんの人生の主人公、青木さんですよね』という言葉がどうしても忘れられなかったんです」
[2]e-GOV「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」
また、タイミング良く、西粟倉村が取り上げられたテレビ番組が放送されたといいます。
村ぐるみで起業を支援する「ローカルベンチャー」の取り組みに惹かれた青木さんは、約1年半もの年月を費やして村を視察、検討を重ねて移住を決めました。
日本スクールドッグ協会を立ち上げたのには、現実的な理由も。
いつも犬と行動を共にしている青木さん。移動手段は車がほとんどです。
ある時には滋賀県まで車で行って、一度自宅に戻ってからまた岡山市内まで。
その日自宅に帰ってきたら翌日には広島に行って…という生活をしていました。
「ワンちゃんたちは1日ずつ交代していますが、私自身がこの生活を続けるのは厳しいと思うようになりました。そこで、私が各エリアに赴くのではなく、そのエリアにちゃんとしたハンドラーがいて、そのハンドラーが地元の学校にワンちゃんを連れて行く方が私もワンちゃんも負担が少ないと思ったんです」

念願叶って起業したものの、「お金ってこんなに稼げないのか」と衝撃を受けたそう。
収入は教員時代の3分の1まで下がりましたが、それでもこの村で活動を続けているのには、青木さんの教育観と重なる西粟倉村の森林の姿が関係しています。
青木さんの言う「ハンドラー」とは、「動物介在教育支援士」と呼ばれる資格を持った専門家のこと。犬の飼い主がハンドラーであるケースが多い。

西粟倉村にある森林。“百年の森林構想”と原生林
西粟倉村は総面積 5,797haのうち、90%以上を森林が占めている村です[3]。
50年前、未来の子どもたちのために一本一本植えられた木々たち。
この木々たちは成長し、今では森林となっていますが、放置していると光が地面まで届かなくなってしまいます。
木々たちを育て、守り、受け継いできた先人たちの思いを途絶えさせず、これから50年後の森林に向けて間伐などの管理を行い、有効活用していく。これが西粟倉村の掲げる「百年の森林(もり)構想」[4]です。
[3]西粟倉村「西粟倉村森林整備計画」
[4]国土交通省「多様な担い手と実現する「百年の森林」構想」


この森林は、人の手によって植えられ、育てられてきた人工林。
その一方で、西粟倉村には天然樹林もあるのです。
その名も「若杉原生林」。
83haの面積にブナ、ナラ、カエデ、トチ、スギなどの植物が199種類も立ち並んでいます[5]。
特別保護地区に指定されているため、こちらは人の手が入っていません。
綺麗に手入れされ美しく整備されている人工林と、ありのままの自然な姿が美しい原生林。
それぞれが大切に守られ、共存していることが西粟倉村の魅力だと青木さんは語ります。ですが、「それでも私はこっちの方が好き」と原生林を指さし、ご自身の教育観を明らかにしてくれました。
[5]西粟倉村「若杉原生林と峠の地蔵」


「落第したっていい」青木さんの教育観
「人工林も原生林もどちらも良いところがありますが、学校ってどちらかといえば人工林に近いですよね。列に並んだり、みんなと同じように管理されたり。でも、1本として同じものも真っすぐなものもない原生林が私の教育観と同じだなと思って。朽ちて倒木してもそこから新しい芽が出るんです」

原生林のような、ありのままの姿を肯定したいという青木さんの教育観は、スクールドッグをお迎えする際の方針からもうかがうことができます。
青木さんがスクールドッグとして迎え入れる子たちは、皆、盲導犬を目指していたもののデビューが叶わなかった「キャリアチェンジ犬」。
盲導犬になるためには、音への耐性も強く、環境変化にも順応できる必要がありますが、私たちを最初に出迎えてくれたレイは、雷の音が苦手。
スーちゃんは気になる物を見つけると、匂いを嗅ぎに行ってしまうという癖があります。
「子どもたちには『この子たちは落第した子たちなんだよ』と紹介します。
『え〜かわいそう〜』なんて声も上がりますね(笑)。
でも、盲導犬には落第して不適合だったけど、スクールドッグには向いている子たちなんだと子どもたちは解釈するんです。
つまり、『何度でもやり直せる』『ありのままの自分でいていい環境がある』と実感する。
しんどい思いをしている子や、駄目というレッテルを貼られた子はそれだけで救われます」
10歳以降の思春期を迎えた子どもにおける死因は、不慮の事故や病気を抜いて、自殺が1位です[6]。
2024年には小中高生の自殺者数が過去最多の529人となりました[7]。
1週間で約10人もの子どもたちが、自らの人生に自ら幕を下ろしている計算になります。
たとえ事故に遭わなかったとしても、病気にならなかったとしても、自ら死を選んでしまう可能性がある現実。
この現実を青木さんは「こんなにも不幸なことってない」と嘆きました。
人工林を育て、守っていくという「百年の森林(もり)構想」にも青木さんの教育観と通ずるところがあります。
「もちろん、犬が介在する教育は現在の教育現場において良い面がたくさんあります。でも今を生きる子どもたちだけにとどまらず、次の世代の子たちが過ごしやすい居場所や生きやすい環境を、犬と一緒につくって広めてあげたいんです。この先何十年も未来の子どもたちのためにも」
[6]厚生労働省「令和5年(2023)人口動態統計月報年計(概数)の概況」
消費者庁消費者安全課「⼦どもの不慮の事故の発⽣傾向〜厚⽣労働省「⼈⼝動態調査」より〜」
[7]厚生労働省自殺対策推進室警察庁生活安全局生活安全企画課「令和6年中における自殺の状況」
認定NPOキッズドア「子どもの自殺」

そして青木さんは、今まさに、この村に「居場所」をつくろうと画策中です。
今の子も未来の子も、ありのままでいられる「居場所」をつくる
案内してくれたのは、国道373号から少し入ったところにある廃工場。
30年ほど放置されていましたが、青木さんの取り組みに賛同したオーナーが「好きなように使って」と貸してくれたそうです。

青木さんは約950㎡の大きさがあるこの工場を生まれ変わらせようとしています。
「屋内ドッグランやハンドラーの研修施設にしようと考え中で、『スクールドッグ発信基地』になったらいいですね。この工場だけでなく、裏にある山も1000坪お借りしているので散歩もし放題です(笑)。夏にはお化け屋敷をしたいと話している子どもたちもいて、子どももワンちゃんも飼い主もみんなが自由に来て自由に過ごせて、ワンちゃんと触れ合えるような場所を目指しています」
全ての人に開けた場所にしたいと話す青木さんですが、工場を改装している現段階から既に子どもたちの大切な「居場所」になっていました。
青木さんの言っていた、お化け屋敷計画も実はその一つ。
スクールドッグ活動で知り合ったフリースクールの生徒たちが、お化け屋敷のキャストをしたいと言い出しています。
フリースクールとは、何らかの理由により不登校になってしまった子どもたちに対して、学習活動や体験活動を行い、学校の代わりに過ごしてもらう民間の施設です[7]。
また廃工場の内壁や外壁の塗装は、岡山市内の高校生が手伝っています。
しかし、中には学校のみんなと一緒に来ることができない不登校の子も…。
「ちょうど2日前ですね。その子がお母さんと2人でふらっとやってきて、1人で一生懸命黙々と絵を描いて、ふらっと帰っていきました」
[7]文部科学省「フリースクール・淵宇高に対する取組」
不登校サポートナビ「フリースクールってどんなところ?」


改めて、ドッグラン完成後のビジョンを青木さんに伺いました。
「ドッグランが完成してからも、こうやっていつでも来ていい場所として存在したいです。例えば、日中、学校に行きづらい子や行けていない子にはこの施設に来てもらって、ワンちゃんの世話やドッグラン運営をしてもらえたらいいですね。就労支援としても利用してもらえるように検討中です」

森林を守り続ける西粟倉村の取り組みは、単なる自然保護ではありません。
地域全体の持続可能性を見据えた、未来への投資です。
同じように、青木さんの「居場所」づくりも、今の子どもたちだけでなく、次の世代、そのまた次の世代へとつながる社会基盤のひとつになるでしょう。
「しんどい」と感じている子も、「自分には価値がない」と思っている子も、ありのままでいていい場所がある。
たとえ不器用でも、傷ついていても、自分らしくいられる環境は誰にとっても必要です。
持続可能な森と、持続可能な教育。
西粟倉村から広がる青木さんと犬の小さな挑戦は、より良い未来を築く大きな一歩となるかもしれません。
この記事の取材先

青木 潤一(日本スクールドッグ協会代表理事)
大阪府出身。大学卒業後、中学校教諭として15年間の勤務(社会科教諭)。在職時に学校で犬を飼う取り組みを実践。2020年に退職し、翌年に学校へスクールドッグを派遣する事業を起業。2022年に、スクールドッグ(動物介在教育)活動を普及・啓発するための日本スクールドッグ協会を設立。
犬と私
ちゃんとした犬との出会いはたった10年ほど前のこと。実家では猫を飼うほどの猫派だったりする。東京の立教女学院小学校でのスクールドッグ活動に感銘を受け、犬を飼うことを決意。今では、大の犬好きに。
HP/SNS
日本スクールドッグ協会
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資格
・動物介在教育支援士
この記事の監修者

鮎川 多絵 (愛玩動物飼養管理士2級・ライター)
東京都出身。1986年10月生まれ。趣味は映画鑑賞・1人旅・散歩・動物スケッチ。
家族は保護犬1匹保護猫2匹(+空から見守る黒うさぎのピンキー)。
犬と私
子供の時からイヌ科動物が大好きでした。戸川幸夫氏の「牙王」で狼犬に憧れ、シートン動物記で「オオカミ王ロボ」に胸を打たれました。特に大きな犬のゆったりとした雄姿には目を奪われます。保護犬と保護猫の飼育経験から、動物関連の社会問題、災害時のペット同伴避難について意識を向けています。







