
「話せない赤ちゃん」と、「言葉を持たない犬」。
そんな存在たちと、どうやって気持ちを通わせればいいのでしょうか?
日本ベビーサイン協会の代表理事である吉中みちるさんは、言葉を超えた対話の力を実感しています。
2人の子どもを育てる中でも、大型犬との暮らしを続けてきた吉中さんに、犬と子育て、そして言葉を超えたコミュニケーションについてお話を伺いました。
「言葉がなくても、伝えられることがある」
ベビーサイン、愛犬たち、そして家族のリアルな日常から見えてきた、コミュニケーションの本質とは。
この記事を書いた人
ベビーサインとは?話す前からのコミュニケーション

——まずは、吉中さんが全国に広めている「ベビーサイン」について教えてください。
ベビーサインとは、まだ話せない月齢の赤ちゃんとコミュニケーションをとる方法の一つです。言葉が話せなくても、簡単な手話やジェスチャーをサインとして使って、「お話し」することができるんですよ。
——ベビーサインを始めるのには、最適なタイミングがあるのでしょうか。
親が赤ちゃんにサインを見せるのは、生まれてすぐからでも大丈夫です。
ただ、赤ちゃんが手の動きを見て覚えて自ら使えるようになるのは、お座りができるようになる頃ぐらいでしょうか。
なので、赤ちゃんの反応が返ってくるのは生後6、7カ月以降かなという感じですね。

——赤ちゃん側も習得するのに時間がかかりそうです。
それこそ、生まれてすぐ、ねんねの頃からスキンシップや語りかけでたくさん関わってもらった赤ちゃんたちは、ベビーサインを見せ始めたときの反応が良い傾向があるような気がします。
「赤ちゃんって、寝てばかりだから」と、関わることがおろそかになってしまうかもしれないのですが、その土台はとても大事なんですよね。
——生まれてすぐからですか。
赤ちゃんって「こっちに関心を向けてほしい」「話しかけてほしい」「目を見てほしい」って思って生まれてくる生き物なので、それにやっぱりしっかり応えてあげるっていう親の関わりが、言葉を育むし心を育むんです。
喋れないし、自分で動けないけど、実は、たくさんのことを吸収できる存在。
——そうしたコミュニケーションの土台は子どもだけでなく、家族全員にとって良い影響がありそうですね。
子どもからしたら「伝わらないストレス」がないし、親も「分かってあげられないストレス」がない。
育児にあまり興味がないお父さんやおじいちゃんおばあちゃんも、サインを見たら「そういうことね」とお世話がスムーズにできるので、家族みんなが子育てに関わってくれるんです。
上にいるお兄ちゃんお姉ちゃんも、小さい弟や妹が「訳の分からない相手」じゃなくて、「ちゃんと意思疎通できるじゃん」という存在になると、きょうだい関係も良くなったりします。
そういうふうに赤ちゃん期を過ごしていると、お母さんお父さんが「ちゃんとお世話ができていた」「自分の子どものニーズに応えられていた」と自信を持てます。
そうすると幼稚園、小学校、中学校、高校と成長につれていろいろな問題が出てきても、ちゃんと我が子と分かり合えていたという経験があるので、こじれない親子関係の根っこができるんです。
私はそれがベビーサインの一番良いプレゼントだと思っています。
——吉中さんとお子さんたちとの現在の関係に、その「プレゼント」の影響はありますか。
学校や社会に出て困ったことがあった時に、最初に打ち明けて相談できる相手はお父さんお母さんであるべきじゃないですか。
そういった信頼関係が築けているな、とは思います。
うちの子たちは25歳と22歳になりますが、実はスマホで位置情報を共有しているんです。
「そんなの嫌がるでしょ」と言われるのですが、子どもたちは「お母さんたちが安心だったらそれでいいんじゃない」と言ってくれて。
「見られて困ることは何もしてないし」という感じで、こちらとしては一人暮らしをしている子どもたちが、いざという時どこにいるのか見れますし。

初めての大型犬との暮らし

——吉中さんは犬ともなんでも会話されるそうですね。
めちゃくちゃ喋ります。
散歩中も喋るので、「あの人ちょっとおかしいんじゃない」みたいな感じで見られることもありますが(笑)。
「あのおじさんは知らない人だね」とか、「工事中だからちょっとこっち寄って歩くんだよ」とか。
——吉中さんの、犬と共に生きる人生の始まりは小学1年生です。
貰ったお年玉を全部使って柴犬を飼いました。
当時はムツゴロウさんがすごく流行っていたり、野生動物について紹介するTV番組を毎週金曜日の夜に家族で見ていたりして。
そういう影響があって動物を好きになり、いつしか「犬を飼いたい」と思うようになっていました。
本名、畑正憲(はた まさのり)さん。「ムツゴロウさん」の愛称で親しまれた動物文学者。
——それ以降ずっと犬を飼われていた。
そうですね。
犬がいないと寂しくて、いつも私の人生には犬の存在がありました。
——初めて飼った大型犬はラブラドルレトリバーだったそうですね。
アメリカ留学中のルームメイトが黒くて大きいラブラドルレトリバーを飼っていたんです。
穏やかですごく良いワンちゃんでした。
それですっかり「大型犬飼いたい!」と思ってしまって。
それでとあるラブラドルレトリバーと縁があり、お迎えすることになりました。
名前はスプーキーです。

——スプーキーを飼ってみてどうでしたか。
ラブラドルレトリバーって盲導犬のイメージもあって、賢くて大人しくて穏やかだと思ったのですが…。
スプーキーは本当に大変な子でとんでもなくややこしかった(笑)。
外出して帰宅すると、テーブルの上に座ってるんですよ。
そしてそのテーブルの上には爪痕。
ある日は、カーテンを引っ張って遊んでいたらしく、カーテンレールが曲がっていたり。
またある日には、小麦粉をばらまいて床中が真っ白になっていたり。
——想像するだけでも疲れが…。
仕事してヘトヘトになって帰ってくるとそんな状況なので、本当に大変で。
「ざっと掃除して、とりあえずお散歩にも行かないと…」なんて考えていると、「早く遊んで!」ってお尻を噛まれるんです(笑)。
ノイローゼっぽくなりながら生活をしていたような記憶があります。
でも、そんなスプーキーが、ベビーサインの本の出版のきっかけになったんですよ。
——スプーキーが本の出版のきっかけに?
とにかくスプーキーをどうにかしなければと思って、必死でトレーニングの本を探していました。
その時、実業之日本社という出版社が出した、犬の訓練法の本に出会ったんです。
そもそも私がベビーサインに出会ったのは、長男を出産した時。
アメリカ人の友人の勧めでベビーサインを知ったのですが、まだ話すことのできない息子が一生懸命サインを使って話してくれました。
その姿を見て、『こんなに楽しい育児法、みんなにも広めなくちゃ!』と、ベビーサインの本を出そうと思い立ちました。
それからしばらくして、ベビーサインの原稿を主人と書き上げたものの、出版社のあてがなくて困っていた時、「そういえば犬の訓練法の本を出していたあの出版社に連絡してみよう」と原稿を送ったんです。
全然育児書と関係ない会社でしたが、あの訓練法の本の内容が素晴らしく、とても参考になったことが忘れられなくて。
——すごい行動力ですね。
ところが、半年経っても音沙汰がなくて諦めていたら、忘れた頃に編集長から「ぜひうちで出版させてください」と電話があって。
いたずら電話だと思ったくらいです(笑)。
「本当に出版社の方ですか?」と疑っていたら、当時住んでいた京都まで資料をたくさん持って来て下さって、それで出版が実現しました。
スプーキーがトレーニング本に出会わせてくれなかったら、きっと実現していなかったので、スプーキーのおかげなんです。

赤ちゃんと犬、非言語でつながる瞬間
——お子さんが生まれた時、スプーキーは何歳くらいでしたか?
6歳くらいでした。
育児の全てに付き合ってもらって。
子どもを抱っこしたりおんぶしたり、ベビーカーを押したりしながら、30kgちょっとあるスプーキーと散歩に行ったり。
今思えば大変でしたが、当時は必死すぎて大変とも思ってなかったかもしれないです。
ラブラドルレトリバーは毛がかなり抜けるので、こちらは子どものエリア、こちらはスプーキーのエリアというように家の中ではエリア分けをしていました。
——お子さんにとってスプーキーはどんな存在だったのでしょう。
生まれた時から側にいる、家族ですよね。
外で子どもとスプーキーと遊んでいる時に、スプーキーが走り回って姿が見えなくなると、子どもは「どこ?」のサインをよくしていました。
走って突っ込んできたスプーキーにぶっ飛ばされるという経験から、私にしがみついて一生懸命「どこ!?どこ!?」って指を振る姿がかわいくて(笑)。
それから、子どもの散歩に行って、小型犬を見かけると「猫」のサインをするんです。いつも一緒に過ごしている大型犬がうちの子にとっては「犬」で、特にレトリバー系の犬を街中で見るとうちの子オリジナルの「スプーキー」のサインをして教えてくれました。

——まだ話すことができないお子さんと、スプーキーがコミュニケーションを取る場面は。
「お座り」や「おいで」のサインを子どもが覚えると、そのサインを子どもがスプーキーにやって指示を出して、そして指示を出した本人もその動作をするっていうのをやっていました(笑)。
スプーキーがご飯を食べている時は、すぐ横でそれを見て「食べてる」ってサインで私たちに教えてくれたり。
スプーキーはサインで返すことができないので、完全に通じ合っていたというわけではないかもしれませんが、喋れないもの同士、子どもが使うサインを介してやり取りをしていたとは思います。
娘は私にやってもらって楽しかった「一本橋こちょこちょ」を、スプーキーの手を取ってやったりもしていましたね。
スプーキーは私に「なんか嫌なんだけど…」と視線を送っていましたが、とりあえず相手をしてくれていました(笑)。

犬と共に育った子どもの「心の風景」
——お子さんたちと過ごした時間が一番長い犬はスプーキーですか。
スプーキーの後に迎えた、「チーナ」というラブラドゥードルが一番長いですね。
息子は小学2年生、娘はまだ保育園に通っている頃にお迎えして、体高は60cm以上、体重も30kgある大きめの子。
2人の子どもたちの写真のどこにでも写っているぐらい、一緒にいる存在でした。

ラブラドルレトリバーとプードルのミックス犬のこと。
——ということは、スプーキーとの「お別れ」をお子さんたちは経験したのですね。
下の娘はあまりよく分かっていなかったと思いますが、息子はすごくショックだったと思います。
スプーキーは最後の方、腎臓が悪くなって皮膚疾患が出て、全身の毛が抜けてしまって。
私も主人も、その姿を写真に収めるのもつらくて撮らなかったんです。
でも息子は、「プーちゃん、プーちゃん」「かわいい、かわいい」と言いながら、自分のカメラでいっぱい写真を撮ってくれました。
最後の方の写真は、息子が撮ってくれた写真ばかりですね。
動けない体になっても、私たちを目でチロチロ追っているスプーキーの姿が写真に残っていて、すごくありがたかったです。
小さい子どもって、見た目がどうとかあまり思わないじゃないですか。
大事な一瞬一瞬を、息子なりに愛情を込めて写真に撮ってくれたんだなって。

大きな存在にそっと支えられて
——チーナをお迎えしたきっかけは。
スプーキーが亡くなって1年ぐらいは次の子を迎える気になりませんでした。
でも犬のいない生活をしてみて、寂しくて耐えられなくて。
「やっぱりおらんといかん」って思って探して、出会ったのがチーナです。
——犬と一緒に育つことで、お子さんにどんな影響がありましたか。
まず、子どもたちをお留守番させている時に心配じゃなかったですね。
大きい犬が一緒にいるから、変な人は入ってこないだろうなと思えるじゃないですか。
その辺の安心感がありました。
あとはやっぱり、大きくてふわふわで温かいものが一緒にいる良さは特に感じました。
親からすると、子どもたちがちょっと落ち込んでいるなという時って分かるじゃないですか。
そういう時に、犬に寄り添っていたりくっついていたりすることがあって、子どもたちにとっても犬という存在が安心や癒しになっているんだろうなと思います。


——ワンちゃんたちは、お子さんたちと過ごしているとどうでしたか。
どう思っているのか本当のところは誰にも分かりませんが、常に子どもの側にいますよ。
例えば息子の友達が家に遊びに来て、ゲームをして過ごしている時でも、当然のようにその輪の中に入ろうとしていますから。
みんなからは「邪魔!画面が見えない!」なんて言われていますけど(笑)。
子どもたちが小さい頃も、特に「赤ちゃんに飛びついてはいけない」とかしつけをしていないのに、とても優しくしてくれていました。
犬なりに、「この人間は小さいから気を付けなければ」と分かっているのでしょうね。
全ての命に言葉を超えた理解を
——今後の吉中さんのビジョンを教えてください。
動けなくても、喋れなくても、何か伝える術があるはずだと伝えていきたいです。
一見分からなくても、ちゃんとそれぞれ考えがある相手としてみんながみんなを扱ってほしい。
人だけではなくて、犬のような動物も、誰一人置いてきぼりにすることなく、ちゃんと通じ合える仲間だと接してもらえる、そういう社会になるといいですね。
あとは、動物に限らず生き物好きの人たちが育つといいなと思います。
生き物が好きな人が育てば、もっと社会が優しくなる。
生きとし生けるものの命は、ゴキブリの命も私の命も犬の命も、器が違うだけで一つの大事な命。
そういう認識が広がれば、もっと優しい社会になるんじゃないかと思います。

——これから犬と子育てをすることを検討している方へ、アドバイスをお願いします。
子育ての忙しい時期に「犬」がいることは、時間的にも経済的にもかなり大変です。
子犬から成犬に成長していく過程で、言うことを聞かない、粗相をする、吠える、家を破壊されるなど…。
どんな問題が出てきても、ちゃんと向き合える自信がないなら、犬を迎えるのはあまりお勧めしません。
“完璧に思い通りになる犬”を求めていたら、家族も、迎えられた犬も幸せになれないからです。
私自身は子育てで忙しい時期に、じっと見つめてくれる犬のまなざしにとっても助けられました。
大きなふわふわをぎゅっと抱きしめることも最高の幸せだと感じます。
でも、そこには犬に対する尊敬の念があって、常に子どもと同じくらい、犬も大事にしてきたベースがあってこそなのです。


インタビュー中、すぐ隣で甘える現在の愛犬「アントン」(スタンダード・プードル)に優しく声をかける吉中さんの姿が印象的でした。
言葉が通じる相手にも通じない相手にも、同じように愛情を注ぎ、理解しようとする姿勢。
それこそが、真のコミュニケーションの原点なのかもしれません。
ベビーサインも、犬とのコミュニケーションも、「通じ合いたい」「理解したい」という心から生まれるもの。
犬と子どもが一緒に育つ家庭では、言葉以外の方法で気持ちを伝え合う機会が自然と生まれます。
「非言語コミュニケーション」が豊かな人間関係を築く際の土台になる。
吉中さんとお子さんたちとの関係性や、歴代の愛犬たちとの深い絆からは、その可能性を見つけることができました。
取材させていただいた方

吉中みちる(一般社団法人日本ベビーサイン協会代表理事)
経歴
息子出産後、まだ日本になかった「ベビーサイン」をアメリカ人の友人から教えてもらい、それを実践。すると、子育てがずっとラクで楽しくなった。
アメリカの児童心理学者2人と提携し、2004年協会設立。これまでに延べ1700名の講師を育成し、100万人の親子にベビーサインを届ける。ベビーサイン導入保育園は約130園。世界最大のベビーサイン教室参加者数(341人)としてギネス世界記録保持。
ベビーサイン育児が母親にもたらす影響を調査した論文で初等教育学博士号を取得し、2022年保育学会、2023年韓国幼児教育学会(英語)で発表。日本のベビーサイン育児の先駆者であり、その普及活動の第一人者。
SNS総フォロワー数は4.6万人。
赤ちゃんは全身で世界を学びます。大人の関わりで心も体も育ちます。おしゃべり前から手話やジェスチャーで親子が楽しく通じ合える「ベビーサイン」を広めています。
犬と私
小学校1年生の時、自分のお年玉で始めて犬を迎えました。以来、ほぼずっと犬のいる暮らしです。留学の時ルームメイトの自宅に牛みたいに大きなラブラドールがいて、そこから大型犬大好きに!
HP/SNS
一般社団法人 日本ベビーサイン協会
instagram
note
著書
ベビーサイン図鑑(Gakken)その他著書多数
資格
絵本で子育てセンター講師・絵本セラピスト
この記事の監修者

鮎川 多絵 (愛玩動物飼養管理士2級・ライター)
東京都出身。1986年10月生まれ。趣味は映画鑑賞・1人旅・散歩・動物スケッチ。
家族は保護犬1匹保護猫2匹(+空から見守る黒うさぎのピンキー)。
犬と私
子供の時からイヌ科動物が大好きでした。戸川幸夫氏の「牙王」で狼犬に憧れ、シートン動物記で「オオカミ王ロボ」に胸を打たれました。特に大きな犬のゆったりとした雄姿には目を奪われます。保護犬と保護猫の飼育経験から、動物関連の社会問題、災害時のペット同伴避難について意識を向けています。
この記事の監修者

吉田萌 (NPO法人ドッグトレーナー2級)
国際動物専門学校 しつけ・トレーニング学科卒。
噛み・吠え癖の酷い元保護犬のビーグルを里親に迎えた事をきっかけに『褒めてしつける』を念頭に活動。 自身の経験を活かし、しつけイベントにて飼い主に寄り添ったトレーニング方法を指導。 ナチュラルペットフード・栄養学の知識にも精通。保有資格はNPO法人ドッグトレーナー2級の他に、しつけアドバイザー2級、愛玩動物飼養管理士、ドッググルーマー2級など。
資格
NPO法人ドッグトレーナー2級、しつけアドバイザー2級、愛玩動物飼養管理士、ドッググルーマー2級







